欺瞞に関する話

今日久々にこちらに帰ってきたランバ・ラリるであったり、あとはT・Nであったりアモスであったりあとなべさんと、なんだか集まるメンツも固定化してきた高校の連中の集い。なぁ、俺は以前からこういう人だったっけ・・・?なんだかノリについていけない自分を感じますw
つーかな、否定形で話すことが多いよな俺。いかんなぁ。昔からこうだったかな。こうだったのかも。なんか受け答えが良くないなぁ。





自己犠牲について。自己犠牲は、価値観的に効用を生む場合もあることを学びました。つまりそうして全体に貢献することで精神的に幸福感や充足感を得る人もいるのだ、ということ。この場合、滅私奉公は自分にとってメリットのある行為となる。ただし一部の人間がその価値観を持つにすぎない。

大抵の人間にとっては、自分を犠牲にすることは単に苦痛であるにすぎない。真に自己犠牲を好む者以外は、自分の現状を肯定するために、「全体に貢献するのは良いことだ」と言い訳をしてるだけだ。その言い訳は主に自分に対してなされる。自己犠牲を否定することは、自分の現状(ひいては自分)を否定することにつながるので、それを無意識に恐れるのである。

この場合注意しなければならないのは、自己犠牲から精神的な充足感を得るタイプの人々も、何らかの見返りを期待しているのは間違いないことである。無意識ではあるが、それを得られなければ彼らは悲しむ。上記の種類の人間達と異なるのは、裏切られても自己を犠牲にしたことに対しては不満を言わないことだ。貢献した他者に裏切られたことのみに憤るのである。




最近高校時代の価値観により近くなっている気がします。
とても合理的な思考、だと思う。主体は自分にとってより利益のある選択をする。であるならば、他人に対してWIN-WIN以外の関係を提示するのは無意味な行為である。つまり彼にとって利益のある提案をしなければ、それが受け入れられるはずがないのだ。そうではないでしょうか?何かをする時には、常にそういうことを念頭に置くこと。世の中は基本的に奇麗事で動くわけではない、と思う。



非常に良くビジネスや経済に馴染む考えだと思う。というより、だからビジネスが好きなんだな。これが真実だと思うから。


―真実を、全ての真実を、真実のみを。