生きるに値する

それはもうどうしようもないというほどに心労が溜まった心地がして、家に帰ってからYouTubeラーメンズのコントを見まくった。なんかもう疲れたなぁ。そんな時は皆さん、全てを忘れてラーメンズの世界に浸ってくれ・・・。あんまりに面白すぎるから。もう最高。一例を挙げる。http://www.youtube.com/watch?v=xMPC3ORVkg0


色んな決断をしないといけない・・・正直物事を決めるのは苦手なんだ。苦手というか、判断はいつも他人に委ねて生きてきただけのことなんだろうなぁ。ということにいつしか気づいた。そんな一つ一つの決断によって自分の人生が相当変わるんじゃないだろうかとか考えると、ビビッてどちらにも決められない・・・が、最も悪いのは決断しないことであるのは確かなこと、らしい。ともかくもどうにかしないと。
人間は運命に翻弄されるかもしれないが、幸運を呼び寄せられるかどうかもその人にかかっている。だろう。

とりあえず自己肯定感を取り戻したい。いつ失ってしまったのか。失ってしまった今、それを持っている人を見ると眩くて目を細めてしまう。輝いてるなぁ。



人々の考えは、その人の持つパラダイムに支配されている。だからその人の中では絶対に正しいのかもしれないけれども、結局のところバイアスにかかった見方でしかないのではないだろうか。価値判断において。つまり、こちらが正しい、こちらが良い、という場合において。間違いなく正論のように見えても、我々の文化圏の中で正しいだけなのかもしれない。極めて日本的な何かであるとか。集団への滅私奉公など好例だろうか。そしてそういった主張をするのが悪であると僕は言わない。しかし善であるとも言わない。価値判断(これもまた決断であるか)をすることは必要なことであり、何かに対する自分の態度、スタンスをはっきりさせることは重要だとされている。しかしその時大切なのは、自分の取る態度はある特定のコンテクストの中で正しいと言えることを認識することだ。つまり世界が違えば全く間違いに過ぎないのかもしれないと認めること。
或いは、他者の主張に関してもそのような認識を持つことが大切ではなかろうか。ある人が尊敬に値しうる人であったとして、その人の言が間違いなく正論に見えたとして、しかし違和感を感ずるなら。その時はこのことを考えれば良い。つまり其の主張は、単にバイアスがかっているのである。ある一側面から見た真実が、宇宙を貫く真理であるとは限らない。

そのように考えれば良いだろう。何だか「彼は彼、我は我」としか言ってないようにも思えるけれども、「我」と違っていても、その「彼」の言うことも一片の真実だと認めるのは大切だよね、と言っておこうか。たぶんそんな感じのことを考えた。

なんでこんなことを言うかというと、俺は人に影響されやすい、というか人の言うことを鵜呑みにしやすいんだよなぁ。柔軟と言いますかw
というわけで、ある主張が絶対的に正しい、なんてことはない。往々にしてない。自然科学ですら、パラダイムが変われば真理が変わるのだしね。。
んで今俺が、それでもこれだけは絶対正しい、と思うのはこれだけじゃないだろうか。
「人生は生きるに値する」
これだ。生きるのは簡単なようで、どんな人生でも苦しいレッスンがある。。。厳しい現実に直面する。だが挫けて途中で生を投げ出してしまうほど、人生に喜びが無いだろうか。いや、そうではないだろう。

と、スピリチュアルな落としどころをつけてみるかww


ま、小難しいことを考えず、ラーメンズを見て寝よう。