decision maker
いつまで自分はこうしているつもりなのか。
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今日はGEの藤森さんの講演を聞きに行って、たまたま会った友人と焼肉を食いに行ってダーツした。
正直気もそぞろで講演を聴いていたんだが、お話の中で一つとても印象に残った話があった。
(リーダーの仕事として)決断を下すというものがある。
自分の選んだ結果に責任を持つ。
「こっちを選べば良かった」と後悔してはならない。
自分の決断が正しいと信念を持つことで、自分に自信を持つことができる。
過去を振り返らない。
・・・「(GEは)フラットな組織で、入社半年で私はウェルチと会ったが、入社半年の人間とCEOが平等に議論できる。トップとそれ以外の違いは、最終的に決断を下す人間であるか、否か。それだけである」
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組織やチームでは誰かがdecision makerになるけど、一人一人の人生の中では誰しもが自らの道を選び取っていかなければならないし、その決断に正解はない。決して。分析は最善解をもたらさない。自分の責任において、未来を選び取っていかなければならない。
僕はそれを道理として知っているわけだけれど、心底納得できていないのかもしれない。「最良の選択」があり、それを選び取ることができると信じているのだ。
だからゼミでの研究テーマの根本にも「失敗しない意思決定」とか「失敗した後の挽回方法」とかが関心の範囲としてある。納得するまで追及したいのだ。
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自分が以前下した決断は、結局のところ遅かれ早かれそうなるしかなかったのかもしれない。でもどうしようもなく後悔の念がつきまとうので、僕はその場所で前に進めなくなっていた。
「もしかしたら、もっと良い未来が待っていたのかもしれないのに」
でも時は絶望的な経緯を見せて、色んなものがぶち壊しになってしまった。
ハンプティ・ダンプティみたいに、元に戻らない様々なもの。
こうやって思考を堂々巡りさせながら、日々を漠然と過ごしてる。
焼肉食べに行ってダーツしに行ったのも、そういう理由だ。
付き合いの良い友人を持てたのは幸い。
こうして2ヶ月近くも腐っているのは、たぶん甘えって呼ぶんだろうなとうっすら考えながらも、僕はここから抜け出す術が分からないのだ。理性が「時が全てを癒す」と告げていても、感情がそれを納得しない。
自分の現状に対して苛々する気持ちもあるし、ここから立ち上がるべきだと言う事も分かってる。
分かってるんだ・・・!
「主よ、迷える子羊をお救いください」